『名前を呼んで』
「うーん、うーん、うーん、うーん‥‥」
「？」
村で唯一の万屋での買い物帰りの途中、ミセス・ホルゾフは妙な唸り声を耳にして足を止めた。
声のする方を覗き込むと、雪かきで出来た雪山のかげに座り込んでいる人物がいた。
「オーギュストさん、何やってんだい、そんなとこで？」
ミセス・ホルゾフは呆れ口調でその人物に呼び掛けた。
40代後半くらいのその男性は、ややあってようやく呼び掛けられたことに気付いて振り向いた。
「ああ、ミセス・ホルゾフじゃないですか。どうしました？」
「どうしました、はこっちのセリフだよ。そんなとこに座り込んで何やってるんだい。お尻が凍傷になっちまうよ。」
ここアイシクルロッジは万年雪に覆われた極寒の村である。戸外に立っているだけで、体中の血が凍りつくような寒さの土地だ。
「おっと、つい考え事に夢中になって、いつの間にか座り込んじゃってたみたいです。」
立ち上がって雪をはらった男性は、ミセス・ホルゾフに向かってにっこりと笑った。
「あ、ホントですね。お尻の感覚がなくなってますよ。」
「やれやれ。のんきな人だねえ、オーギュストさんは。」
屈託なく笑うオーギュストを見て、ミセス・ホルゾフもまた微笑んだ。
「今はアイシクルロッジの短い春だけど、道端に座り込んで日なたぼっこ出来る気候って訳じゃないよ。」
「春？今は春なんですか？でも、まだ２月の半ばですよ？」
オーギュストは驚いて言った。
「オーギュストさんはよその人だから知らないんだね。このアイシクルロッジの春は世界で一番早くやって来て、世界で一番早く去っていくんだよ。この２月のひと月がその短い春なのさ。」
「そうだったんですか。知りませんでした。今が春なんですねえ。言われて見れば、すこーし暖かいような気も‥‥」
「あははは、無理することないよ。春とはいっても、よその人からしてみればいつもの凍りつく寒さに変わりないだろうからね。」
ミセス・ホルゾフはますます愉快そうに笑った。
「ははは、そうですね。でも‥‥」
オーギュストは目を細めて柔らかな陽射しを見上げた。
「こんな穏やかな晴れの日が続くのは、やっぱり今が春だからなんですねえ。考えてみれば、今までの私は春を肌で感じる余裕など、ほとんどなかったように思います‥‥」
しんみりした口調で言うオーギュストを、ミセス・ホルゾフはただ黙って見つめた。
「ところでオーギュストさん、さっきは何をしきりに唸ってたんだい？何か考え事をしていたとか言ってたけど、お尻が凍傷になるまで何分かかるか、なんて計っていた訳じゃないんだろ？」
がらりと話題を変えるように、ミセス・ホルゾフは陽気に言った。
「ええ、実はですね、娘の名前を考えていたんです。」
「ああ、イファルナさんとの赤ちゃんの‥‥って、まだ名前決めてなかったのかい。赤ちゃんが生まれてから、もうとっくに一週間は経ってるだろうに。」
「はい。出産日までには決めておくつもりでいろいろ考えていたのですが、今度はいろいろ考えすぎて決まらなくなっちゃいましてですね。はははは。」
オーギュストは照れ隠しのように笑いながら頭をかいた。
「やれやれ。博士さんは小難しく考えすぎなんだよ。うちの子供達の名前はみんなダンナが付けたんだけど、上の子は世界最高峰の山の名前から、下の子は世界最大の湖の名前からとっただけなんだからねえ。」
「ああ、なるほど。だからエベレット君とカスピアちゃんなんですね。」
「そういうことさ。笑っちゃうくらい単純だろ、冒険家の付ける名前なんてさ。」
オーギュストはとんでもないと首を振った。
「とても素敵な名前だと思います。ホルゾフさんらしい大きな夢のある名前ですね。」
「ふふ、ありがとうよ。オーギュストさんも、オーギュストさんらしい素敵な名前を付けておやりよ。でも、考えすぎてお父さんが凍死、なんてことになったらシャレにならないからほどほどにね。」
冗談ぽく笑ったミセス・ホルゾフは、小さく手を振ると寒さに背を丸めながら家路を辿って行った。
その後ろ姿を見送ったオーギュストは、しばらくぼんやりとその場に立っていた。
やがて、くるりと向きを変えて歩き出した彼は、自宅に戻るつもりで再び考え事に没頭していた。そのまま自宅の前を通り過ぎ、村の小道を歩いて行った。
「‥‥おや？」
ふと我に返ったオーギュストは、辺りを見回した。周りにはすでに一軒の民家もなく、見渡す限りの白銀の原が広がっている。
その場に立ち尽くしたオーギュストは、雪の眩しさに目を細め、空を仰いだ。
「私らしく、か‥‥」
学問と研究に明け暮れてきた日々。科学と結婚し、人の親になることなどないと思っていた。
「まさか我が子に名前を付けることが、こんっっっっっなに難しいことだとは思いも寄りませんでしたねえ。」
しかし頭を悩ませる一方で、彼は心からの幸せを感じていた。いつまででも名前を考え続けていたいような、そんな気分だった。
「まあ、そういう訳にはいきませんよね。いつまでも赤ちゃん赤ちゃんと呼んでいたら、あの子が自分の名前を『赤ちゃん』と誤解してしまいます。」
早く名前を決めてやらなければと思うが、決まらない。彼の思考はその繰り返しであった。
強い寒風が吹き抜け、オーギュストは身を震わせた。
「ミセス・ホルゾフの言うとおり、凍死でもしたらシャレになりませんね。何があっても、あの子の名前を付けるまでは死ねませんよ。」
村へ戻ろうと踵を返して歩き出したオーギュストは、その一歩目で何かに躓いて前のめりに突っ伏した。
「いたたたた‥‥」
全身雪まみれになった彼は、一体何に躓いたのかと足元を振り返った。
それは、突き出た岩の一部だった。
「なんだ、岩か‥‥って、あれ。」
このアイシクルロッジで岩や石を見ることはほとんどない。厚く積もった雪が、地表のものをすべて覆い隠しているからだ。
「そうか。岩が顔を出すほど、積雪が減っているということなんですねえ。」
オーギュストは岩の周りの雪をかき分け始めた。いくらも掘らないうちに、雪の下から地面が現れた。
そして彼は、もう一つのものを見つけた。それは、小さな小さな緑の草の芽だった。
「こんな雪の下で‥‥」
生者を拒むかのような容赦ない雪の世界。その過酷な環境の下で、確かに息づく生命を目の当たりにし、オーギュストは例えようもない感動を覚えた。
同時に、この場所に緑の生命を生み出し、育んだ大地に対して心からの畏敬の念を抱いた。
「雪はこんなに冷たいのに、大地はとても暖かかったのですね‥‥」
そっと草の芽に触れたオーギュストは、その瞬間ひとつの名前が頭の中に浮かんだ。
彼は立ち上がった。もう考える必要も、迷う必要もなかった。
「決めた‥‥。決めましたよ、君の名前を！」
彼は駆け出した。雪に何度も足を取られながら、我が家へと走る。
家の中へ駆け込んだオーギュストは、妻を呼ぼうとしてはたと思いついた。
「そうだ、ビデオに撮ろうっ。我が子に名を授ける瞬間を撮らずして、何を撮るというのでしょうっ。」
居間の騒々しい物音を聞きつけて、イファルナが現れた。その腕には可愛らしい赤ん坊が抱かれている。
「博士‥‥じゃなくて、あなた。何をしているの？」
「いえね、ビデオを撮ろうと思ったんですけど、なんか調子が悪くてですね。だいじょぶかな、これで？」
「また撮るんですか？他に話していないことが、まだあったかしら？‥‥ああ、もしかして、この子を撮るつもりなのね？」
「そうですよ。かわい〜い我が子を撮るんです。」
赤ん坊を抱いたまま、イファルナが歩み寄って来た。
「でもあなた、そのテープはジェノバのことを話したテープじゃなかったかしら？」
「あ！しまった、重ね撮りしちゃいました！‥‥まあ、いいか。もうこんな研究は私には無意味なものだし、それより我が子の成長記録の方がずっとずーっと重要ですよ。」
「ビデオもいいけどそれより先に、私の名前を決めてって言ってますよ、この子。」
イファルナは腕の中の我が子を見下ろし、あやすように笑いかけた。
「あはは、そうでした。お待たせしちゃいましたね。決めましたよ、君の名前を。」
オーギュストは妻から赤ん坊を受け取り、そっと優しく抱いた。
その小さな体の持つ温もりは、体の芯から凍りつくようだった寒さを瞬く間に和らげてくれた。
オーギュストは一呼吸置き、ゆっくりとその名前を口にした。
「お嬢さん、君の名前は『エアリス』だよ。」
「エアリス‥‥」
その名前を繰り返したイファルナの表情に笑みが灯った。
「とてもかわいい名前だわ。何か意味があるの？」
「はい。古い言葉で大地という意味なんです。果てしなく広がる大地のように、大きく強い心を持ち、生命を育む大地のように、優しく暖かい心を持つ。そんな子に育って欲しいと思って名付けました。」
「本当に素敵な名前ね‥‥。ありがとう、あなた。それから、こんにちは、エアリス。」
オーギュストの腕の中のエアリスに、イファルナは愛情溢れるキスを落とした。
安らかな寝息を立てる我が子の寝顔を、オーギュストは泣きたくなるほどの愛しさで見つめた。
エアリス。どうか君の未来が、光に満ち溢れた暖かいものでありますように。
そして、君を取り巻く人々が、愛情を込めてこの名前を呼んでくれますように。
――私はただひたすら、それだけを願っています。
― END ―
読んで頂いてありがとうございます！今回のＳＳもＦＦ７長編の中の一場面を膨らませたものです。
オーギュストとはガスト博士のことだったりしますが、ここではオーギュスト・ファレミスが彼の本名というオリジナル設定でお送りしています。
ミセス・ホルゾフなる人物もまたオリキャラで、ゲーム中実際にガイアの絶壁の麓で登場する登山家ホルゾフの奥さん、という設定です。
エアリス誕生日記念ＳＳという名目でお届けしましたが、いかがだったでしょうか。誕生日記念といいながら、エアリス本人の出番はほとんどないんですけどもね。しかも赤ん坊；